Baba O'Riley

Words and Music by Pete Townshend.
(1971年発表)



(原題直訳 「ババ・オライリー」)*1



From The Who album, "Who's Next".
名作アルバム度 ☆☆☆☆☆

「フーズ・ネクスト」 (フー)




歌詞は、次のURLから
http://sfpower.tripod.com/baba.html




名曲度 ☆☆☆☆☆




邦題 「ババ・オライリー」 (ザ・フー









Out here in the fields
この原野に出て来て
I fight for my meals
ぼくはメシ食うために苦闘している
I get my back into my living
生活のためにいろんなものを背負って
I don't need to fight to prove I'm right
ぼくには
自分が正しいことを証明するために
戦うことなど必要ない
I don't need to be forgiven
許してもらう必要も、ぼくにはない




Don't cry
泣くなよ
Don't raise your eye
目を上げることもない
It's only teenage wasteland
これはただの十代の荒地にすぎないんだ




Sally ,take my hand
サリー、ぼくの手につかまれよ
And travel south across land
それで、この国の南の方を旅してみよう
Put out the fire
火を消そう
Don't look past my shoulder
肩越しに過去を振り返るのはやめにしよう
The exodus is here
脱出はここからはじまるんだ
The happy ones are near
幸せな人たちはそばにいるんだ
Let's get together
さあ、一緒になろう
Before we get much older
ぼくらがあまり年をとってしまわないうちに




Teenage wasteland
十代の荒野
It's only teenage wasteland
これはただの十代の荒地にすぎないんだ
Teenage wasteland
十代の荒野
Oh, oh
あゝ、あゝ
Teenage wasteland
十代の荒地だ
They're all wasted!
彼らはみんな荒廃させられたのだ!







Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞





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まずは、アルバム・タイトルの「Who’s Next」、これには言うまでもなく2通りの意味がある。
まずは、「The Whoの次のアルバム」という意味での「Who’s Next」。つまり、所有を表す「’s」であり、前作のロック・オペラの力作ダブル・アルバム「トミー」以来、久々の新作となった「 The Whoの今度のアルバム」という意味だ。
そして、もうひとつは「’s」を「is」の省略形として(普通の英語どおりに)「次は誰だ?」という疑問形のタイトルだ。得体の知れないコンクリーの塊にフーの4人が立ちションをして立ち去る姿をとらえた写真に「次は誰だ」「誰が次だ」というタイトルが附せられている。なかなか下品で辛辣なユーモアである。英語の表現に「piss off」(うんざりする、いやけがさして立ち去る)というのがあるが(piss という語がそもそも「小便」の意味であるのだから)、まさに(文字どおり、画像どおりに)それである。
とまあ、ここまでは誰でも考えられる常識の範囲内である。こっから先は独創というか独想というか(はたまた妄想というべきか)(わたくしによる言葉の)独奏となるので、引き返すのならいまのうち・・・・では、いきますぞい!


もう、一度、上掲のジャケット写真をよく見てほしい。この歌にふさわしい荒野の光景だが、どこかよその星の風景のように見えなくもない。
このアルバムが発表されたのはアポロ何号だったによる人類初の月面着陸という偉業のまだ余波が漂ってはいただろう1971年のことだった。だから、おそらくこの石ころだらけの荒れ地の光景に月世界や他の惑星を連想することはけっして不自然なことではない。そして「次は誰だ?」と立小便をしているというわけだ。
しかし、まだまだ、これはほんの序の口、前戯にすらにもいたっていない。とりあえず着衣を取り除いてさしあげた程度にすぎない。ここで重要なのは、あくまでもその中央に硬く堂々と屹立したブツである(画像参照ネ!)、つまりこのコンクリートの粗く分厚い板状の物体が問題(というか)この正体不明の物体を問題視するのが(わたしにとっては)(正しい)思考の進路づけである。そして、この正体不明の粗く分厚い板状の物体にスタンリー・キューブリック監督の名作「2001年宇宙の旅」の「モノリス」monolith をオーヴァーラップさせてみようという、その提案がわたしの独創である。どうですか、この指、止まってみますか、それともパクッと一泊、指の宿と書いて「指宿」(いぶすき)と読みますが、どうですか、この指、入れてみますか、とEve好きなAdam野郎がシモにふざけておりますが、あれれ、もう入っちゃいましたよ、スイッチオンでクリック、クラック・・・もう一本、くらくらするわんというわけで、この正体不明の物体は、モノリスをかたどったものだとうまくレイヤーを重ねることにして、さて、モノリスとは何か? Yahooにかけたら、どどっと出て来たんで、ドレミてみま評価と、http://www.ne.jp/asahi/21st/web/forum.htm あたりを(ページ検索「モノリス」で)拾い読み、知識人の先生方がいろいろと論じておられますが、モノリスが何かという知識はとくに必要はないだろう。

キューブリックの映画では、最初の方で地球上の類人猿がこのモノリスに触れて知恵をつけ、人類へと進化を遂げていくさまが示唆的に描き出され、また映画の最後では、人類が「スターチャイルド」という新たな生命体へと進化していくことが示唆される。要するに闖入した異物に触れたその恍惚から新たなものが誕生する(皆さまご存知のお決まりのメカニズムにおける)その異物がモノリスであるわけだが、そのモノリスは、ハァハァ、いかに現象しているのかというと、まさにそれは「壁」として現象しているわけですね。分厚い板状の壁、どこから見ても壁、上から見ても下から見ても右から見ても左から見ても前から見ても後ろから見ても斜めから見ても、これはどこから見ても)また、目をつむって触っても)「壁」なのですね。普通は壁というのはわたしたちを取り囲むもので上や下のものは「壁」とは呼ばずに「天井」とか「床」とかいう名で呼ばれるわけだが、この「壁」は何もないところにいきなり凝縮した「壁」体として現象し、そこが周囲の中心となってしまう。再び上掲のジャケットを見てください、ザ・フーの4人は、この壁の向こうに行くことができずに(文字どおり)「piss off」、すなわち小便ひっかけて立ち去っていく(そんな様子に見てとれる)わけですが、(そこ(=その場)にあることによって)周囲からの(とりあえずの)中心として作用しているこの(コンクリート製のひどく俗世的な)モノリスは「壁」として現象しているのですから、ザ・フーの4人が(いま)(壁に背を向けて)顔を向けている側が(壁の)「内側」ということになるわけです。つまり、この「モノリス」という正体不明の物体が(そこに)出現するまでは、そこには内も外もなかったわけです。ところが、この全面が壁からなる「壁」体(「ウォール体」とでも名づけましょうか)の出現によって、この原野は「内側」化したのです。つまり、(未知なる)「外」部というものを持つことになったのです。

少し、話題を外らしてみましょう。人間社会に(たとえば)刑務所を作るとします。塀で囲んで刑務所です。壁で囲んで監房です。刑務所の「中」は市民社会の「外」です。つまり、塀の中、壁の内側が「外」であり、壁の外(塀の外側)が「内」側です。では、次に(刑務所のことなどおかまなしに一気に忘れてしまってください)この塀の中をどんどん狭めるかたちで塀が一枚の合板状になるまでグングン凝縮していきます。すると(いままで見ていたとおりでの塀の中が消失して)1個のモノリス状になるでしょう。ここから話の次元が新しい位相に入ります。
社会に建設された刑務所は同一のひとつの空間を四方の塀で仕切ったものでした。(司法という塀といってもいいでしょう)(要するにいつものわたしの詩法です(笑い))。しかし、「モノリス」という「壁=ウォール」体の向こうには空間はありません。もっと言えば「向こう」が(空間としては)存在していません。つまり、「向こう」というものが「そこ」にはないのです。(より厳密を期すなら)「向こう」というものが同一次元のものとしては「そこ」にはないのです。それがモノリスというウォール体の特徴のひとつです。そういう異物をまえにして知恵というものが発生するというのが、(キューブリックアーサー・C・クラークの脚本による)「2001年宇宙の旅」におけるモノリスの設定です。下世話に言えば、アルタミラやラスコーの壁画に「モノリス」の「壁」の名残りがあり、また「石版」や「石板」、「羊皮紙」や「パピルス」もまたモノリスの変形した代用物です。人間が壁にぶつかると強くなり、賢くなるのも、人類のこの太古の「モノリス」体験によって刷り込まれた習性なのかもしれません(?)。もちろん、モノリスというウォール体の出現によって絶滅した種もあったように「壁」に突き当たって(それを超えられず)斃れていく者も(当然のことながら)少なくはないでしょう(ってこれはフィクションのお話なわけですが)(その意味では)それも道理にかなったことです。

ところで、このウォール体には(しかし)何か特殊な神秘的な力があって、その霊力(のようなものが)触れる者に力を与えたわけではないでしょう。じゃなければ、フィクションとしてはつまりません。単なる「異物」であるからこそ面白いわけですが、このウォール体を異物としているものは、「壁」の向こうにある異次元です。水や風や(火も? 温度が)高いところから低いところへ流れるようにこの異次元は(おそらく)(より)高い次元なのでしょう。でなければ、それを触れる者に影響を及ぼすことはないのかもしれません。その意味では、このモノリスは(言葉の意味として)半導体でもあります。*2
このウォール体がなければ、バラバラにそれぞれの本能なり直観にしたがって動いていた者がそこに忽然と出現した異次元の顕われであるこの異物によって(それをとりあえずの「中心」として)(にわかに)組織化され、(組織だって系統だった)新たなる動きを繰り広げるようになっていく。
ということでは、これは「神」という異物と変わりありません。偶像崇拝もまたモノリスの名残りだということになるでしょう。

たとえば、よく引かれる例だけれども、3次元の立体というのは、未知なる4次元の切り口だということがある。わかりやすく(次元を平行移動して)言えば、平面というのは立体の断面であり、直線は平面の切り口の形状であり、点は直線の切り口の形状だ。逆に言えば、点を1次元方向に延長すると直線状になり、この直線をさらに1次元方向に敷衍していけば平面状になり、面をさらに1次元方向に敷衍すれば立体状を描き出す。だったら、切り口が(面でなく)立体であるような形状とは、いったいどんなものか? *3。つまり、このモノリスは4次元の切り口なのだ。*4そういうことをイイ加減考えていると、やっぱりやんなって来て、フーならずとも、フゥフゥ、「はい、お次は誰ですか」と匙を投げたくなってきてしまうが、手にしたスプーンが曲がってしまったヨ・・・なんてね(笑い)。




ところで、この歌「ババ・オライリー」のキメのフレーズ・・・・・




Teenage wasteland
It's only teenage wasteland

十代の荒野
これはただの十代の荒地にすぎないんだ



という「wasteland」から、T・S・エリオットの有名な「荒地」を思い浮かべる人もいるだろう。
「十代の荒地」teenage wateland と訳したが、本当は「十代の廃墟」とか「十代の残骸」というように訳してしまいたい思いがする。
なぜなら、この世の中は(夢破れた大人たちの)「十代の廃墟」が背景となってできている風景だからだと、この歌を聴くたびに思うのである。



そして、



Let's get together
Before we get much older


さあ、あんまり年をくってしまわないうちに
おれたち、一緒になろッ。



っていうのは、実用的な口説き文句(というか)プロポーズにこそふさわしい名セリフだと思うので、しっかりと頭に入れとくといいだろう。ってゆーのはいいとして、ピート・タウンジェントのこの歌詞には、同じくフーの初期の名曲「マイ・ジェネレーション」の有名なあのフレーズがこだましているのが聴きとれるだろう。




Hope I die before I get old

おいぼれないうちに
おれは(さっさと)くたばっちまいたいぜ

*1:「ババ」はこの歌を書いたピート・タウンジェンドのグルであるミハ・ババのババで、「オライリー」はこの曲の後半で聴かれるケルト風のヴァイオリンソロの曲調の名称のこと。したがって「ババ・オライリー」ということになる。まあ、「東京音頭」みたいなものですね。

*2:わたしたちは異物を直感的に感知します、それはちょうど即座に異性を感知したり意識したりするのと変わりません。犬や猫をすぐに感覚的にキャッチするのと同じです。見方を変えれば、わたしたちは(ある一定程度の同一性、同質性を感知するのと(「同じ」と言っていいまでに)表裏の(一律性という)かたちで「異物」を感知します。それは(わたしたちの身体の)免疫システムに由来するものかもしれません。しかし、そうして感知した「異物」をより高次のものと見るか、低次のものと見るか(とらえるか)は、その人間が異物をとらえる解像力、また、それにもとづく理解力(あるいは、(人にもよるが)包容力、つまり器量)によるものとなるでしょう。そして、そうした「能=力」は、その人間のハートや魂がどれだけ(の経験や体験を重ね)学び、鍛えられ、開発されてきたかによるのだろうと思います。その裏づけとして言えば、人類共通のフォークロア的に言って、どの地域、どの民族、どの言葉にも「聖と賎」が通底するエピソードにはこと欠かないとういうことがある。

*3:例えば、「断面」という語は正確ではないが、切り口が「球体」であるような形態を、わたしたちは残念ながらどう頭をひねっても絞っても、どうにも想い描くことができないのだ。もどかしいこった。かりにそうした形状がゲットできれば、3次元から2次元の平面をそっくり丸ごと俯瞰できるように、われわれのこの3次元の世界を俯瞰(ならぬ「時瞰」)する「神」の視座というものを手に入れることができるようになる。さあ、ものども、騎士団を組織して(われらが姫のために)未知への探求の旅に出るとしよう。これ以上のロマンもロマンチックもないだろう。生きたまま神の視座を獲得する。これぞまさしく(空海の説いた)「即身成仏義」だ。

*4:墓石も死の世界という異次元である向こう側への壁という意味でのモノリスの名残りなのだろう。