People Take Pictures Of Each Other

Words & Music by Raymond Douglas Davies.
(1968年発表)




(原題直訳 「人々は互いに写真を撮り合う」)




From The Kinks album,
"The Kinks Are The Village Green Preservation Society".
名作アルバム度 ☆☆☆☆☆

「ヴィレッジ・グリーン・プリザベイション・ソサエティ」 (キンクス




歌詞は、次のURLから
http://www.oldielyrics.com/lyrics/the_kinks/people_take_pictures_of_each_other.html



名曲度 ☆☆





邦題 「写しあった写真」 (キンクス






People take pictures of the Summer,
人々は夏の写真を撮る
Just in case someone thought they had missed it,
誰かが懐かしく思い出す場合のためにきちんとそなえて
And to proved that it really existed.
そして、実際にそういうことがあったんだってことを証明するのに
Fathers take pictures of the mothers,
父親たちは母親たちの写真を撮る
And the sisters take pictures of brothers,
そして姉妹は兄弟たちの写真を撮る
Just to show that they love one another.
お互いにみんなが愛し合っていることをちゃんとわからせて見せるそのために




You can't picture love that you took from me,
きみが写真に撮ることができないのは
きみがぼくから取り上げてしまった愛情
When we were young and the world was free.
ぼくたちが若く、そして世界が自由だったあのころに。
Pictures of things as they used to be,
いろんなものの写真、みんなこんなだったんだな
Don't show me no more, please.
頼むから、もうこれ以上、ぼくには見せないでくれ




People take pictures of each other,
人々はお互いの写真を撮る
Just to prove that they really existed,
自分たちが本当に存在していたことをしっかり証明するために
Just to prove that they really existed.
自分たちが本当にいたことをとにかく立証するために
People take pictures of each other,
人間はお互いに写真を撮り合うんだ
And the moment to last them for ever,
そして、その瞬間がいつまでも自分たちに残るようにと
Of the time when they mattered to someone.
自分たちがある誰か、人にとってとって重要なものだったその時間が




La la lai la, La la lai la,
♪ ララライラ、ララライラ
La la lai la, Lai lai lai
♪ ララライラ、ライライライ




People take pictures of each other,
人々はお互いの写真を撮る
Just to prove that they really existed,
自分たちが本当に存在していたことをしっかり証明するために
Just to prove that they really existed.
自分たちが本当にいたんだっことをとにかく立証するために
People take pictures of each other,
人間はお互いに写真を撮り合うのさ
And the moment to last them for ever,
そして、その瞬間がいつまでもずぅーと自分たちにつづくようにと
Of the time when they mattered to someone.
彼らが誰かにとって大切な人であるその時間
Picture of me when I was just three,
ぼくがまだ3つだった頃の写真だな
Sucking my thumb by the old oak tree.
懐かしい樫の木の脇で親指をしゃぶってるよォ
Oh how I love things as they used to be,
あゝ、ぼくはどれだけ
むかしのままの姿の いろんなものを愛していることか
Don't show me no more, please.
お願いだから
これ以上、もう、ぼくには見せたりしないでおくれ








Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞







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この歌で(わたしを)なんともいい気分にさせてくれるのが、




When we were young and the world was free.

ぼくたちが若く、そして世界が自由だったころ




というくだりだ。これと同じような歌詞は、アルバム3曲目の「ドゥ・ユウ・リメンバー・ウォルター」にもあったけれど(覚えているだろうかw?)




Walter, remember when the world was young
And all the girls knew Walter's name?

ウォルター、憶えているかい? 
世界が若々しくて、女の子たちがみんなウォルターの名前を知ってた頃のことを




もちろん、世界が実際に若かったり、自由だったりしたというわけではなく、(言うまでもなく)歌の語り手(=歌い手)がまだ若く、あるいは幼く、無垢で、(たいした責任も課せられることなく、それゆえに大いに)自由だったがために「世界」が(もしくは「世の中」が)彼の心にそう映っていたということだ。*1


そして、そういう「世界」や「人」や「もの」や「こと」、
折々の「場所」や折々の「時間」を、
かつて撮った写真に、いま、見い出す。
そして、彼は思うのだ・・・・・



Oh how I love things as they used to be,

あゝ、ぼくはどんなにいろんなものを
むかしあったとおりのままのかたちで愛していることか*2


というこのフレーズ、というよりも、この感情、気持ちは
単にアルバムの最後を飾るこの歌だけでなく、このアルバムに収録された曲の全篇を通底し、アルバム全体を集約するフレーズ(もしくは作者のレイ・デイヴィスに即して言うならば、アルバム全体を集約する「思い」)となっていることは、こうしてアルバムの全曲を聴き終わったいまなら誰の耳にも明らかなことだろう。
そして、さらに注目すべきは、このフレーズが
The Kinks Are The Village Green Preservation Society」というアルバム・タイトルと、
そこに(象徴的なかたちで)示された「Village Green」( "村の緑" )と、その「Preservation」(保護、保存)というこのアルバムのメイン・テーマに直結したものだということだ。



きょうまで12回にわたって皆さんとご一緒に聴いてきたとおり、
このアルバム「ヴィレッジ・グリーン・プリザベイション・ソサエティ」には、いわゆるストーリーというものはない。
したがって、いわゆるロック・オペラと称されるものとは一線を画すべきものではあるにもかかわらず、全15曲を数えるこのアルバムのすべての歌には(その音楽的な多彩さにもかかわらず)聴き進めるにしたかって、そこに何らかのある共通性が(そのサウンドと相俟って)存在しているのに気づくだろう。
それは「 "村の緑" を保存する、保護する、残す」というひとつのテーマのもとに、アルバムに収録された15の曲、15の歌たちが配列されているということだ。それぞれの歌がそれぞれのかたちでこの統一テーマと呼応し合って並んでいるのだ。しかし、そこにはいまだプロットやストーリーはない。だが、やはりどうしてもこの順番でというそれぞれの歌の特性は明らかにその配列に活かされている、さらにはまた、わたしたちは、ウォルターやジョニー・サンダーやロージーやその許婚者で夫となったトムや、(氏名不詳の)有名人好きのグルーピー、いかにも魔女めいた(村の伝承民話の人物だろうか)不気味なアナベラや、(おそらくは高級コールガールなのだろう)都会的で洗練されたクールな謎めいたいい女(と歌われている)モニカ、そして、何人もの「ぼくの友人」たちとそのまたお友達、そればかりかそこには擬人化されて語られる(「神」を思わせる)「大空」や「最後の蒸気機関車の列車」といったけっして少なからぬキャラクター(=登場人物たち)の姿も、わたしたちはしかりと目撃してきたはずだ。

だから、かりに、もしも、これらの登場人物同士を何らかのかたちで関係づけ、あわせて、それぞれの歌を相互に(横に直接的に、もしくは間接的に)結びつけるものがあれば*3、それは、そこにひとつの直線的に伸びていく、ある種のアクティヴな関連性を継起させるだろう、それがストーリーであり、また、個々の歌を結びつけるその結びつきの関連性の内実が(いわゆる)プロットに当たるものだとしておこう。そのとき、その歌たちは一篇の「ロック・オペラ」と呼ばれ、また称されることになるだろう。

キンクスが1968年に発表したこのアルバム「ヴィレッジ・グリーン・プリザベイション・ソサエティ」が、ロック史的に(もしくは世間的に)(プリティシングズの「SFソロー」と並んで)The Whoの名作ロック・オペラ「トミー」の先駆けとなった(いわゆる)コンセプト・アルバムのはしり(先行的な作品)だという評価は、実は、こういうことなのだ。*4
(この項、未完)



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※ロック・オペラ@「こまさ座」Opera House komasafarina 上演中



キンクス 「ソープ・オペラ」(全12曲)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20051116


・フー 「トミー」(全24曲)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20051221


ピンク・フロイド 「ザ・ウォール」(全26曲)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050813


ルー・リード 「ベルリン」(全10曲)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20060518


・デイヴィッド・ボウイ「ジギー・スターダストとスパダーズ・フロム・マーズの躍進と凋落」(全11曲)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050709






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【A Year Ago−Go!】




(1年前のエントリーを Playback♪




・「ファクトリー・ガール」 (ローリング・ストーンズ

http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050727

*1:それをそのままに(見えたがままに、映るがままに)述べる、というこの視点というか視座というか統叙は、心にとめておいてべつに何かの妨げになることはないないだろう。むしろ、ものを考えるときのひとつの技法として、これは活用できるかもしれない。写真で言えばフィルターのようにして。

*2:むかしを見い出し、あらためていまの自分を再発見しているわけだが、ここで「写真」というすぐれて近代的なものが媒体として(つまりメディアとして)介在していることは、けっして見落とすべきではないだろう。すなわち、無媒介的に想念の世界に思いをめぐらせ、郷愁に耽り、懐かしさの感情、すなわちノスタルジーの広がりに足をすくわれることなく、あらかじめ幾葉もの「写真」(その紙焼きプリント)を介在させることで「異物」としての隔たりを(「いま=ここ」という現在に)現出させ、あらかじめノスタルジーへ飲み込まれ、耽溺してしまう途を断ち切っておく。それはアルバムの3曲目の「ピクチャー・ブック」におても同じで、さら同様のしぐさは2曲目の「ウォルターを覚えているかい?」の中で(昔のかっこよかったウォルターの思い出だけでなく)結婚してデブになってつまらない暮らしを送っているだろうウォルターを敢えて歌の主人公に想像させてみることにもうかがえるし、何よりもアルバム最後のこの歌のこのフレーズにつづく歌詞が「Don't show me no more, please.」(頼むから、もうこれ以上ぼくに見せないでくれ)というものでこの歌もアルバム全体も終わっていること。そして、さらに視点を高くして視野を広げてアルバム全体を通してみるならば、いかにも都会的で現代的な「スターストラック」や「モニカ」といった歌をアルバムの終盤に配することで単なるノスタルジーだけに堕してしまうことを回避している点にも耳を止めておいてよいだろう。失われたもの、失われゆくものへの現実的な自覚とか認識とでも言っておこうか・・・・・。そこから、このアルバムのタイトルである「キンクスは"村の緑"の保存会です」The Kinks Are The Village Green Preservation Society という主体的で旗幟鮮明な(反時代的とも言える)(彼らに特有の)姿勢が形成されることになる。

*3:それぞれの歌は(同時に)アルバム全体の統一的なメインテーマーとそれぞれのかたちで個々に縦に結びついてる

*4:人は、そうした歴史的な評価や定評といったものを何かで読んだり、耳にしたりして、誰もがほとんどそれを知ってはいる。そして、また、その言わんとうるところもわかったつもりになっている。そして、そのアルバムのタイトルなりアーチストの名前が誰かの口から出るたびに(ほとんど条件反射のようにして)(まるで鸚鵡返しのように)そうした(読んだり聞いたりした)「評価」や「定評」「定説」を自分の口から復唱し、また、ことあるごとにそれをお題目のように唱えて、今度は自分がその説を人に伝える側にまわって、言えば言うほど、さながら自分が確かにそれを理解しているつもりになってしまうものだが、いざ、実際にそうした評価や定説が現実にどういうことなのかとなると、自分の耳で(ある一定の時間を実際に生きてしまうように、あるいは体験するようにして)直接アルバムに(それを)聴いてみることをなかなかしようとはしないものだ。自分がその時間を実際に生きるようにして体験し(それこそ)思い知ったことと、人から聞いたり、どこかで読んだことをざっと頭の中のデータと対照して(せいぜいが)足し算引き算で納得したり、了承したつもりになるだけがその支えでしかない知識(や情報)では、そこにはその人間の魂の内実において(やはり)大きな違いや差ができることになるだろう。(だから)(僭越ながら)今回のこの特集がそういうことにいくらかでも役立てばと思う。