Rheinhardt And Geraldine

Words & Music by Kevin Ayers.
(1970年発表)








(原題直訳 「ラインハルトとジェラルディン」)*1









歌詞は、次のURLから、
http://www.metrolyrics.com/rheinhardt-geraldine-lyrics-kevin-ayers.html





From the Kevin Ayers And The Whole World album, "Shooting At The Moon".  *2

名作アルバム度 ☆☆



アルバム「月に撃つ」(ケヴィン・エアーズ)より *3








名曲度 ☆☆








邦題「ラインハルトとジェラルディン」 (ケヴィン・エアーズ) *4










There's nothing new around the sun
太陽のまわりには何も新しいものはない
Everything you think of has been done
きみが考えつくようなことは
何もかも ことごとく 為されてしまっている
All been done before your time;
すべては、きみのこの時代よりもまえに為されている
Sometime or another
いつか、あるときに
By someone and his brother,
誰かや、その同類によってだ
Yeah, yeah
うん、そうだ
Oh
あゝ
Yeah
そうだ




From the poison comes the flower
毒から花が生じて
Butterfly for just an hour
1時間(ルビ=ひととき)だけの蝶
But it burns ecstatic fire,
しかし、それは恍惚の炎と燃え上がる
The kind of life we all desire
わたしたちみんなが欲するような種類の生活
Desire...
欲望・・・・
Fire....
火・・・・・










Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞 100310

*1:この男女それぞれのふたつの名前が何なのか、あるいは誰か具体的な(歴史上や、あるいは神話や伝説上のフィクショナルな)人物のものなのか、また、どうして この歌が こういうタイトルになっているのかは、わたくしの知識や理解も想像や調査も超えているようでわかりませぬオテアゲハチョーhi-ヒーラヒラ。

*2:「ザ・ホール・ワールド(=全世界)」を名乗っているのは、この時期のケヴィン・エアーズのバック・バンドで(エアーズ自身のヴォーカルとギター、ときおりベースのほかに)マリンバを含む各種鍵盤楽器(ルビ=キーボード)とギターのデイヴィッド・ベッドフォード、サックスにロル・コクスィル、ベースとギターに(のちに一人多重録音の大作「チュブラー・ベルズ」で名を馳せる)マイク・オールド・フィールド、ドラムスにミック・フィンチャー、さらにゲスト・シンガーとしてブリジット・セイント・ジョンといった総じて優れて音楽家(ルビ=ミュージシャン)として評価が高いメンバーを多く集めながらも、いずれっも演奏家(ルビ=プレイヤー)としてはさして魅力のあるヒトたちばかりであるせいか、その演奏は(正直言って)それほどでもない。(これは(とくにこのケヴィン・エアーズのホールワールドについてということではなく)(あくまで わたし個人の印象であるのだが)いつも、あまり演奏の上手くないヒトたちを見たり聴いたりするときに感じるのは、楽器を鳴らす最後のところで(つまり、自分が出す音と自分が出した音を聴き、それを次に出す音につなげるそこのところで)どうも最終的にアタマが散漫になって身体や各部位、各器官のコントロールが杜撰になってしまっているという印象を持ってしまう。そして、それは(いささか飛躍と取られるだろうが)あまり官能的な生活をしていないか、あるいは、それを知らないか、もしくは、それ(つまり、そうした官能面での生活)が過ぎるのかのいずれかだろうと(ひとり勝手に)(そうした「鈍」な演奏家たちの出す音に)接するたびに結論づけているw。そう、そうしたヒトたちの演奏は、身体(ルビ=からだ)が無駄な異物や遺制のようにして(その演奏から)遺ってしまっていて、音に、あるいは演奏という行為にその身体や存在が解消されていくかのように(音に)融合し、一体化して、自らが時空に解き放たれているという、そんな自覚や印象がどうにも稀薄なのだとも言えるかもしれない・・・・。つまり、そこでは演奏する自分(=主体)が(演奏という行為を契機(ルビ=モメント)に)演奏される自分(=客体)への転位が起こり、自分が音という他者となって消滅していくというメカニズムが現前してくるはずなのが、それが起こらず、不能、不全に陥った演奏行為というべきか、(まあ、わたしの勝手な言い草にすぎないのだが)その上で、そのことに自分で違和感や(アハハ(おそらくは)残尿感にも喩えられる)不快感を覚えないプレイヤーというのは、きっと頭脳派や理論派の奏者だったりするのかもしれないが、ジャズの優れたプレーヤーがけっしてそうではないように、それを単にパッションの問題だけにすり替えてしまうのはいたずらにことを単純化するばかりであるだろう。) なお、このアルバムからは、すでに「狂人の嘆き」http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20060309 と「月に撃つ」http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20060309#p2 がここで紹介されていますので、よろしけれどうぞ♪

*3:(ジェケットの絵をよく見れば、どなたにもおわかりのとおり)これは「撃つ」よりも「射つ(>射る)」のほうがよろしいようにできていますね。

*4:CD盤のこのアルバムでは、きょうのこの歌「ラインハルトとジェラルディン」とその次の歌「コロレス・パラ・ドロレス」が(途中に(前者のコーダとも考えられる)現代音楽風のテープ操作と編集による実験的なサウンド・コラージュを橋渡しにして)どちらも「トラック#2」としてメドレー扱いになっていますので、附録として(その後半の)「コロレス・パラ・ドロレス」もつづけて聴いてみることにしましょう。(レコード盤では、(そのトラック自体はCD盤とは変わらないのだが)この2曲はそれぞれアルバムA面の「トラック#2」と「トラック#3」として別個のラインナップとしてクレジットされている。)