Don't Leave Me Now

Words & Music by Roger Waters.
(1979年発表)



(原題直訳 「ぼくをいまおいていかないでくれ」)




From The Pink Floyd album, "The Wall".
名作アルバム度 ☆☆☆

ザ・ウォール」 (ピンク・フロイド




歌詞は、次のURLから
http://www.pink-floyd-lyrics.com/html/dont-leave-me-now-wall-lyrics.html




邦題 「ドント・リーヴ・ミー・ナウ」 (ピンク・フロイド








Ooooh, babe
おゝ、愛しいおまえ
Don't leave me now.
いま、ぼくのことを捨てないでくれ
Don't say it's the end of the road.
これが終点だなんて言わないでくれ
Remember the flowers I sent.
ぼくが贈った花束を覚えているだろう
思い出してくれ
I need you, babe
きみが必要なんだよ、なあ
To put through the shredder
人をシュレッダーにかけるような真似を
In front of my friends
ぼくの友達たちのまえでするなんて
Ooooh Babe.
おゝ、ぼくの愛しい人
Don't leave me now.
いま、ぼくを捨てたりしないでくれ
How could you go?
よくきみは出て行けるなあ?
When you know how I need you
ぼくがこんなに
きみのことを必要としてるのを知りながら。
To beat to a pulp on a Saturday night
土曜の夜に人をとことんへこませるんだ
Ooooh Babe.
おゝゝゝ、愛しいきみ
Don't leave me now
いま、ぼくをおいていかないでくれ
How can you treat me this way?
どうして、ぼくにそんな仕打ちができるんだい
Running away.
逃げ出すなんて
Oooh, Babe.
おゝ、愛しいおまえ
Why are you running away?
どうして逃げていくんだ?




Oooooh Babe!
おゝゝゝ、ベイブ
Oooooh Babe!
おゝゝゝ、ベイブ
Oooooh Babe!
おゝゝゝ、ベイブ





Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞






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まえの曲「One Of My Turns」とこの曲「Don't Leave Me Now」とで2曲もかけて彼女は去っていく。

そして、この曲の最後の一節で繰り返されるこのフレーズ、





Oooooh Babe!
Oooooh Babe!
Oooooh Babe!


おゝゝゝ、ベイブ
おゝゝゝ、ベイブ
おゝゝゝ、ベイブ




はアルバムの6曲目にある「マザー」の中で再三繰り返されるものと同じ歌詞、同じ旋律に基づく変奏となっており、このふたつの曲を結ぶひとつのコントラストをなす照応関係を示すとともに、同時にアルバム全体のキー・フレーズのひとつとなっている。
つまり、何が言いたいのかと言うと・・・・・この曲の歌い手を「母親」とするのがひとつの健全な(成長の)物語のあり方であり、(その意味では)この「ザ・ウォール」という物語は(結論を急ぐなら)成長にしくじる物語であることが次第にあらわになりつつある(・・・と言えようか)。実際、上掲の歌詞を「母親」として歌える歌手は(性別を問わず)多くいるだろう。歌というものの底深さであり、幅広さであり、器の大きさである。*1


そして、「おゝ、赤ちゃん、Oooooh Babe」というこのフレーズ、
「Oooooh Babe、おゝ、愛しき者よ」というフレーズ

愛されたように愛せない
愛されたように愛されない
愛せないのか、愛さないのか


もっと言うならば、「愛されたように愛せない」、
それは(こと恋愛に限らず)ある種のトラブルの原型である*2
(さらに変奏するなら)(それは)「愛されたように愛されない」ということでもあって、
(理由は)「愛せないのか、(あるいは)愛さないのか」たしかではない。


(これに)少し作為を加えてさらに繰り返すなら
(母親に)愛されたように(他者を/女を)愛せない、
(母親に)愛されたように(他者から/女から)愛されない、
愛せないのか、
愛さないのか、
*3




そして、こういう挫折のひとつひとつが(この物語では)「壁」を作る「煉瓦」のひとつになっていくのだ・・・・

*1:たとえば、ビートルズの「シーズ・リーヴィング・ホーム」における両親の嘆きと(ピンクフロイドのこの2曲を)聴き比べてみるとよいだろう。http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050112#p2

*2:もとをたどれば(さまざま)「不均衡」から生ずるトラブルの実に多いこと、多いこと・・・・、すべてのトラブルは不均衡より生ずる、均衡を破ればトラブルが発生する、とも言えるほどだろう。しかし、「二」や「多」(や「他」)を「一」と見ることが「均衡」であるならば、不均衡のもとにある「二」や「多」(や「他」)を(それぞれの)「一」、多数の「一」、他人の「一」とすれば、不均衡もあたりまえ、何の問題もトラブルもないのだろうが、しかし、人間、(物事を)そう見れないところに問題が、トラブルが起こるのだろう。ひとつでなくなった「一」は、それぞれの「位置」に「配置」され、(しかも)それぞれが((連結的、非連動的、もしくは連続的、非連続的に)運動したり、静止したりで、一元的な均衡など(放っておいても)無化不能となる多元化をもたらすのだ。つまり基準も(全方位状に向けて)ひとつでなくなるのだから、あゝ、ベイビー、おれはこういう状態の宇宙がとっても自由で大好きだ、量的にも質的にも可能態、可動態にある自由からすらも自由な宇宙。それが生命が本来あったところ、個々の生命がいずれは再び還るところ、という意味での宇宙であり、そこでは生命とは「力」=エネルギーそのものであって、喩えていうなら「光」のようなものである。light、光、軽い、明るい、あ、軽い、それが生命という力。(力から重さを連想してはならない、本来、力とは光のように軽い(重さ、質量のない力、すなわち)「智」から生じるエネルギーなのである。

*3:しかし、愛せるようになってしまうと、本当に愛するようになってしまって、(どうやら)愛されようとしなくなるようで、(そうなると)神の愛というのは(ときに)問題多いんだよナ、おい、そこの神様! えっ、オレ? I'd Like to Let All the God Go! 神様、「the」も「d」もいらないよ、レッツGO! Going to a go go!