Hickory Wind

Words & Music by Gram Parsons and Bob Buchanan.
(1968年発表)







(原題直訳 「ヒコリーの風」) *1








歌詞は、次のURLから、
http://www.sing365.com/music/lyric.nsf/Hickory-Wind-lyrics-The-Byrds/8DDA5B05F45E37FB482569A000100B6C







From The Byrds album, "Sweetheart Of The Rodeo".  *2

名作アルバム度 ☆☆☆☆



アルバム「ロデオの恋人」(バーズ)より





Also on the Gram Parsons album, "Return Of The Grievous Angel". *3

名作アルバム度 ☆☆☆



アルバム「グリーヴァス・エンジェル」(グラム・パーソンズ)より







Also on the Joan Baez album, "David's Album".  *4

名作アルバム度 ☆☆☆



ジョーン・バエズ)より










名曲度 ☆☆☆







邦題「ヒッコリー・ウィンド」 (バーズ) *5










In South Carolina,
サウス・キャロライナには
There're many tall pines
高く茂った たくさんの松の木があって
I remember the oak tree that we used to climb
ぼくは、みんなで よくよじ登ったオークの木を覚えている
But now when I'm lonesome
だけど、いまではぼくは寂しくなったときに
I always pretend
いつもそのつもりになってみるだけ
That I'm gettin' the feel of hickory wind
自分がヒコリーのあの風の感じを受けているつもりになってみるんだ




I started out younger,
ぼくはとても若いときからこの仕事をはじめて
Had most everything
たいていのものは何でも手に入れた
All the riches and pleasures,
あらゆる豊かさや快楽を
What else can life bring?
人生がほかに何をもたらせるというのだろう?
But it makes me feel better *6
だけど、ぼくをいい気分にしてくれるのは
Each time it begins
いつもその途端にわかるんだ
Callin' me home, hickory wind
このぼくを故郷へと呼ぶ、あのヒコリーの風なのさ




It's a hard way to find out
なかなか気がつけるものじゃない
That trouble is real
苦しくイヤなこと(ルビ=トラブル)が現実なのだとは。
In a faraway city
遠く離れた都会の
With a faraway feel
心ここにない おぼろな気持ち
But it makes me feel better
だけど、ぼくの気分をよくしてくれるのは
Each time it begins
いつもその途端にわかるんだ
Callin' me home, hickory wind
ぼくを故郷へと呼び寄せる、あのヒッコリーの風
Keeps callin' me home, hickory wind
このぼくをたえず故郷へと呼んでいる、このヒコリーの風なんだ










Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞 080710












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26歳でこの世を去ったグラム・パースンズ(1946-1973)、
フロリダ生まれのジョージア育ちの彼の 生まれたときの名前は
イングラム・セシル・コナー3世」というその響きからしてただならぬお名前で、
父は第二次世界大戦で活躍した退役軍人、
母はフロリダの大きな果樹園のご令嬢、
その人生のはじまりから何不自由なく育ち、
子供の頃から全寮制の名門のプレップ・スクールに通うという
まあ、ロック・ミュージシャンには珍しい育ちだろう。
幼くしてピアノを習うが、彼の音楽的刺激は、9歳のときに地元のホールで見た
エルヴィス・プレスリー♪♪♪ 12歳のとき、最初のギターを手にしたのは、
父の自殺による傷心からだった。
残された母子は、母の故郷のフロリダのウィンター・ハーヴンの果樹園に移り、
そこで母方の姓を名乗り、グラム・パーソンズと正式に改名する。
14歳で地元のロックンロール・バンドに参加、フォークソングのグループにも参加する。キングストン・トリオやブラザーズ・フォアの影響だろうか。
ハイスクール時代の彼のグループ、シローズは、地元のローカル・レーベルから1964年にレコード・デビュー、
その演奏地域をフロリダ州の南東部にまで拡大する。
翌1965年に高校を卒業した彼は、母親を喪う。
アルコール中毒の果ての母の死だった。
彼は学業のため、フロリダを去って、マサチューセッツ州ケンブリッジへ。
ハーヴァード大学の神学科への進学だ。
しかし、わたしたちの予想にたがわず(♪)、
彼はモダン・フォーク・ミュージックのメッカともいえる(?)そのケンブリッジで音楽活動に夢中になり、
最初の1年を終えただけで大学をドロップ・アウトしてまう。
神学を学ぶよりも、LSDを摂取して自ら神の領域を探索し、深く自由に思索することに重要さを見い出だしたのだろう(?)。
そのころ、彼は、やはりケンブリッジのバンド、トロールズのジョン・ニューズと意気投合して、
彼の強い影響を受けてカントリーへの傾斜を深め、インターナショナル・サブマリン・バンドを結成する。
のちに世界の人々から「カントリー・ロック」と呼ばれるようになる(アメリカの伝統的なカントリー・ミュージックとリズム&ブルース色の濃いロックンロールの融合(ルビ=フュージョン)というべき)新しいサウンドの音楽を演奏しはじめる。
やがて、グラムは、バンドとともにニューヨークへ。
19歳、1966年の初めのことだった。
ニューヨークのゴールドスターという(1950年代にはライトニング・ホプキンズや(バディ・ホリー、リッチー・ヴァランスとともに事故死した)ビッグ・バッパーや、1960年代中盤には(「シーズ・アバウト・ムーヴァー」のヒットで知られる)サー・ダグラス・クインテットなどが在籍していたレーベル)からシングル2作(最初のシングルはジョニー・マンデルの「ソ連が攻めて来た、ソ連が攻めて来たぞ」The Russians Are Coming, The Russians Are Coming のカバーで(B面もバック・オーウェンズのカバー「貨物を転がすやつ(=トラック運転手)」Truck Driving Man)、2作目はAB両面ともグループのオリジナルでA面がグラムの作詞、ニューズの作曲の「文無しの決算」Sum Up Broke、B面がグラムの作詞・作曲による「ワン・デー・ウィーク」One Day Week(どういう歌かは不明だが、察するに(たぶん)月初めや月の終わりの1週間が1日しかないというそんな週の歌ではないかと思うのだが、これについては未確認)を発表するが、どちらもポップ・チャートからも、またカントリー・チャートからも相手にされず、レコーディング中の彼らのアルバムは発売が見送られてしまうことになる。
グラムは、西海岸にチャンスを求めて、単身、ロサンジェルスに移り、
ジョニ・ミッチェルの歌にも歌われた)ローレル・キャニオンに拠を構え、
自由な雰囲気を謳歌する中で、元バーズのデイヴィッド・クロズビーの恋人の無名の映画女優、ナンシー・ロスと恋に落ち、クロズビーから彼女を奪ってしまう。
(のちにグラムは(ブライアン・ジョーンズから映画女優アニタ・パレバーグを奪いとるかたちになったローリングストーンズの)キース・リチャーズと親交を持つようになり、彼に強い影響を与えるようにもなるだろう。そして(ジャガー=リチャーズの名作)「野生の馬たち」http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20080309ローリングストーンズに先駆けて自分たちのグループ、フライング・ブリトォ・ブラザーズでレコーディングし、それを発表することになるだろう。)
その恋人、ナンシー・ローズの人脈を得て、グラムは(「行ける!」と踏んだのだろう)ニューヨークからバンドのメンバーを呼び寄せる。
亡き母から相続した財産がそれを可能にしたのだろう。グラムはナンシーと市内のアパートで同棲し、バンドのメンバーには家を一軒借りてやる。
やがてグループはニューヨーク時代からの友人で(名作西部劇映画「シェーン」(アラン・ラッド主演、ジョージ・スティーヴンス監督、1953年)のあの印象的な子役(「シェーン、カンバーック・・・・!」)を演じて一躍、名を馳せた)俳優のブランドン・デ・ウィルドの紹介で(やがてデニス・ホッパーとともに映画「イージー・ライダー」を撮ることになる)(当時は、まだ名優ヘンリー・フォンダの親の七光りの冴えない俳優と見られていた)ピーター・フォンダと知り合い、彼が次に主演するロジャー・コーマン製作のB級映画「白昼の幻想、LSD 5ドルで天国」(ロジャー・コーマン監督、ジャック・ニコルソン脚本(そうです! のちのあの名優のジャック・ニコルソンです)、1967年)にグラムとインターナショナル・サブマリン・バンドは(背景の舞台装置同然の(時代風俗としての))ロック・バンドの役でワンシーンだけ出演するなどして、*7
ロスでも、あまりパッとしない日々を(ロスとのラヴラヴの日々と平行して)過ごすことになる。
やがてバンドも活動休止状態の中で自然消滅となり、
グラムは(きょうのこの歌の共作者としてクレジットされている)ロスでの新しい友人、ボブ・ブキャナンとドラマーのジョン・コーニールらともに細々とクラブ・サーキットでのライヴ活動をつづけていく。
(おそらく、きょうのこの歌ができたのは、この時期のことだろう(<未確認))
しかし、やはり、これだけの逸材が埋もれていられるほど、当時のロサンジェルスのミュージック・シーンが鈍化しているはずもなく、かねてからインターナショナル・サブマリン・バンドに目をつけていたプロデューサー志望の女性がその師(?)であり、また恋人のリー・ヘズルウッド(すなわち、アイドルとしてすっかり失速していた(フランク・シナトラの娘で)(かつての「いちごの片想い」のヒットを放った)ナンシー・シナトラを「♪ このブーツはあなたのことを踏みつけにして歩いていくためのものなのよ」と歌う「Thesed Boots Are Made For Walkin'」(邦題「にくい貴方」)や「サマー・ワイン」http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20060831 で本物の女の歌手として蘇生させたプロデューサーでソングライターで自らも歌手でもあるリー・ヘイゼルウッド(<検索用により一般的なカタカナ表記でネ!))に彼らを紹介、(ナンシーとの一連の成功によって)彼が設立した個人レーベル、LHIからグループは(彼らの発見者であるスージー・ジェーン・ホコムという女性の初プロデュースで)シングルとアルバムをレコーディングすることになる。*8
しかし、この時期、グラムは、ボブ・ブキャナンとのステージ活動を通じて、当時のロスの音楽状況(ルビ=ミュージック・シーン)の中で世界的規模の人気グループ、バーズのクリス・ヒルマンと知り合い、やがてグラムは(カントリー畑に新たなる進路を模索していた)バーズに(自分たちのアルバムの発表を待たずして)参加、*9
彼らの次回作となるアルバム「ロデオの恋人」を(バーズの正式メンバーのひとりとして)ナッシュヴィルでレコーディングする。
「バーズ、ナッシュヴィルの空を飛ぶ」とも称すべきこの彼らの新境地を拓いたアルバム「ロディオの恋人」にグラムは自作の(きょうのこの歌)「ヒッコリーの風」のほかに(ルーク・マクダニエルが(ジョン・ダニエル名義で発表した1959年のシングル「飛び出しナイフのサム」のB面の(当時の世界でもほとんど知る人などないw)))「きみは まだ ぼくの思いに」(邦題「思いこがれて」You're Still On My Mind)と(マール・ハガードの1967年のアルバム「ぼくは淋しい逃亡者」I'm A Lonesome Fugitive の中の1曲)「獄中生活」(邦題「監獄暮らし」Life In Prison」)の3曲でその歌声を残している。 *10
グラムの参加したバーズのこのアルバムは(その僅か1ヶ月まえに発表されるザ・バンドの衝撃的なデビュー・アルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」とともに)やがて当時のロック・シーンの流れを大きく決定づけることになるエポック・メイキングな名作として(今日に至るまで)ロック史に名を残す歴史的な名盤に数えられることとなるだろう。
しかし(と、ここでもまた「しかし」という逆接の接続詞が登場してくることになる彼の「しかし」まみれの生涯において)
グラムは、このバーズのアルバム「ロデオの恋人」の発表を見ることなく、あっさりとバーズを脱退してしまう。
理由は(当時、法の下に人種隔離(ルビ=アパルトヘイト)を施行していた)南アフリカ連邦共和国でのバーズのコンサート・ツアーをグラムが直前になって拒否したためだ。
かつてハーヴァード大学という世界に冠たる最高級の学問の府をあっさりと放り出してしまったのと同じように(なのか?)今回はザ・バーズというロック界における世界レベルの最高級ブランドを)契約も人の迷惑も顧みずあっさりと捨て去ってしまうグラム・パーソンズ
彼のバーズの在籍期間は、結果的に3ヶ月に満たない日数を数えるのみとなる。
この時期にグラムと知り合うことになるキース・リチャーズは(のちに2003年にサンフランシスコで刊行されることになる)「ローリングストーンズによると」という(ミック、キース、チャーリー、ロンの4人の証言を交互に並べたてて構成した)オーラル・バイオグラフィー(語りによる伝記)という形式のストーンズのドキュメンタリー本の中でこんなふうに語ることとなるだろう。いささか長くなるがしばらくキースの語りにおつきあいいただくとしよう・・・・・。
「おれがグラム・パースンズと会ったのは1968年で、ヤツがバーズにいたころのことさ。あいつら、いくつかのクラブで演奏するってんでイングランドに来てたんだが、ちょうどヤツらが「ロデオの恋人」を出して、これから南アフリカに向かおうっていうその直前のことで、おれは、とあるクラブでヤツに会って、話しはじめると、あいつがおれに訊いてきたんだ、「南アフリカのことなんだけどさ、どう思うよ、あんたたちは、あそこは行ったことあるの?」ってな。で、おれは言ってやったのよ、「いや、おれたちはあそこには行かないことにしてるんだ。あれはジョージアなんかより もっとひでえところだぜ」ってな。その晩、おれたちはずっと話し込んで、翌日、やつはバーズを辞めちまったんだ。連中は、あいつ抜きで南アフリカまで出かけてったんだ。 *11
「グラムはおれにカントリー・ミュージックの仕組み(ルビ=メカニクス)を教えてくれたんだ。すっばらしいやつだぜ。ヒット・レコードなんかひとつもないやつだったんだよな。ヒット・チャートを見ていったって、あいつのレコードなんてまったく出て来やしない。それなのに、やつはカントリー・ミュージックじゃ最大級のビッグ・ネームのひとつになってるんだからな。なんでやねん? っておれはしょっちゅう考えてるんだ。もし、あの野郎が阿呆な気の毒な人間じゃなくって、くたばったりしてなきゃ、あいつがどんだけのことをしてたかは神様にしかわかりゃしねえだろうが、と同時にだ、その反面、やつは何か知らんが自分でやろうとしてたことのほとんどをやっちまってたんだってふうにもおれは思うんだ。あいつが生きてたごく短い間に、やつは全部詰め込んじまったんだな。グラムは、誰にも知られることなく、カントリー・ミュージックのツラを変えちまったんだな。あいつが死んじまったあとんなって、カントリー・ミュージックのそのまったく違う面ってのが出て来て、それが今日に至るまでずうーっと広がってきたってわけよ。その影響の強さってレベルで言やあ、グラムにはジミ・ヘンドリクスみたいなとこがあるんだよ。ただしヘンドリクスってのは、生きてるときからもっとずっとうまくいってたってのは明らかなんだけどな。けどもジミは、くっだらねえフィードバックのギターを弾くひっでえギター弾きを丸々一世代にわたって繁殖させちまったわけなんだけどな。愛すべきあのギタリストさんたちをよ!
「グラムは、おれが忘れてた曲とか全然知らなかったような曲をよく知ってたぜ。あいつには、いろんなプレーヤーをいっぱい教えてもらったよ。あと、やつはナッシュヴィルベーカーズフィールドじゃ、カントリーがどういうふうに違って演奏されてるかってのをおれに実際にやって見せてくれたんだ。ふたつの流派なだんよ。まるっきり違うサウンドと取り組み方のな。けども、そういうこととはまたべつのところで、あいつはえらく特別な野郎だったな。おれのダチだったんだよ、あいつは。そう、おれはもっと長く、あの野郎におれのダチでいてほしかったって思うよ。男と一緒になってベッドの上に寝っころがってヘロの禁断症状にのたうちまわるなんて、めったにやることじゃねえしな、二頭立てだぜ、それでもちゃんと気が合ってるんだぜ。」
バーズを辞めたグラムは、その年の終わりに(やはり、バーズを辞めることになる)クリス・ヒルマンとともにフライング・ブリトォ・ブラザーズを結成、
翌1969年には第1作のアルバム「金メッキした罪の宮殿」The Gilded Palace Of Sin を発表、
1970年の第2作アルバム「ブリトォ・デラックス」Burrito Deluxeは((わたしもとても好きな)名作の誉れ高いアルバムだ。
しかし、その2作を残して、グラムはまたしてもグループを去ってしまう・・・・。
そして、彼の生涯も残すところ僅か3年足らずとなってしまうのだが、
しかし、そこから先の話は、いささか、きょうのこの歌とはまた離れすぎたものとなるやもしれず、それはまたいずれかの機会に譲ることとしよう。
われながら、だらだらと何の実りもないお話をすることとなってしまい、ここまでお付き合いいただいたこと、誠に恐縮の至りであります。
(全部、消しちゃおかと思ったんですが、まあ、役に立つこともあるかもなうってコトでこのままここに置いておくことにします。)






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【Years Ago−Go!】







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・「激しい愛を」(キッス)
  (C'mon And Love Me)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20070320







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・「ミスター・ロンリー」 (ボビー・ヴィントン)
  (Mr. Lonely)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20060320








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・「音楽が終わったら」 (ドアーズ)
  (When The Music's Over)
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050320

*1:グラム・パースンズには、もっといい歌がいくつもあるのだが、きょうのこの歌は(バーズのというよりも)世間的には(世界的に)グラム・パーソンズのいちばんの代表作とされている。歌のタイトルにある「ヒコリー」とは、カナダやアメリカに産するクルミ科べガン属の木で、スキーなどに使われる高級木材とされている。(また(この歌に歌われるサウス・カロライナ州に隣接する)ノース・カロライナ州の西部に(人口2万人程度の)ヒッコリーという街もあるようだ)

*2:このアルバムからは、すでに「ゴーイング・ノーホエア」http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20080216 と「クリスチャン・ライフ」http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20060218 がここで紹介されていますので、よろしければどうぞ♪

*3:グラムの没後1ヶ月後に発表された生前の未発表トラックやライブ・トラックから構成された作品で、きょうのこの歌はエミルー・ハリスとのデュエットで北ケベックでのステージでの「Cash On The Barrelhead」からのメドレーで歌われている。

*4:このアルバムからは、すでに「思い出のグリーン・グラス」http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050125 がここで紹介されていますので、よろしければどうぞ♪

*5:きょうのこの歌を際立たせているペダル・スチール・ギターとフィドルは、それぞれロイド・グリーンとジョン・ハートフォードというナッシュヴィルの名セッションマンによるもので、ロイド・グリーンはポール・マッカトニー&ウィングズの「サリーG」(シングル「ジュニアズ・ガーム」のB面所収)でもスチール・ギターを弾いており、ジョン・ハートフォードはグレン・キャンベルの大ヒットで知られるグラミー賞に輝く名曲「ジェントル・オン・マインド」の作者として、またオリジナル・シンガーとして知られるミュージシャンだ。

*6:歌というのは(文章を読むのと違って)なかなか「次」や「先」が聞こえてこない、歌はいつも(歌われている)(聞こえている)「いま」の歌詞で、少したって(話のオチを楽しむように)(その歌詞が)何のことだかわかる、そういう宙ぶらりんの状態を歌と演奏がときには慰撫し、ときに掻き立て、ときにじらしたりなどするものです。(つまりさ、学校の英語の授業のようにサ、うしろから平気でバンバン正しく意味をとってような真似はけっして褒められたやり方にはならないんだよねということ。芸術や人生における心の不自由は自由な(それゆえに繊細な?)心にしか届かない(?)。)

*7:その映画のためにグループが用意したのは、グラムのオリジナルで(のちのフライング・ブリトォ・ブラザーズの名作となる)「気だるい日々」は、当然のことながら映画にはそぐわず、彼らのその場面には(マイク・オールドフィールドやバディ・マイルズらの)エレクトリック・フラッグのオリジナル・ナンバーが使われ、画面はインター・サブ・バンドという奇妙なことになる。(<DVD未確認につき、後日の確定まで(よろしく宙吊りにて)

*8:しかし、バンドは、当時すでに消滅状態にあり、ベースのイアン・ダンロップとドラムスのミッキー・ゴーヴィンはグラムのもとにはなく、バンドはグラムとジョン・ニューズに加えて、新たにナッシュヴィルでセッションマンとして働いていたグラムの古い友人の のジョン・コーニールを呼び寄せて、ほかに(ピアノ、ベース、ペダル・スチール・ギターの)3人のセッション・ミュージシャンを雇ってグラムのオリジナル2曲をレコーディングして、これをシングルとして発表、その数ヶ月後には新たにベースにクリス・エスリッジを加えて、やがて「おうちで安心」Safe At Home と題するアルバムをレコーディングすることになる。このときのエスリッジは、やがてグラムが結成する(もうひとつの)彼の伝説的なバンド、フライング・ブリトォ・ブラザーズにもオリジナル・メンバーとして参加することになるだろう。

*9:この時点におけるバーズは、すでに(カントリー色の濃い)当時の最新作アルバム「名うてのバード兄弟」The Notrious Byrd Brothers(1968年1月発表)の時点で当初の5人からオリジナル・メンバーも(リーダーのロジャー・マッグィン、ベースのクリス・ヒルマン、ドラムスのマイク・クラークの)3人だけになっており、あとはスタジオ・ミュージシヤンを加えてレコーディングしている状態だった。しかも、その作品の発表後には、ドラムスのマイク・クラークもグループを去り、グラムは新ドラマーのケヴィン・ケリーとともにバーズに加入することとなる。 一方、グラムが抜けたインターナショナル・サブマリン・バンドは即座に解散を余儀なくされることになり、怒ったLHIレーベルとの間で訴訟騒ぎなどもあったようだが、アルバムは(すでにバンドが存在していない)1968年になってようやく発表されることになり、当然のごとく何の注目も集めることなく時代の波間に没していくが、今日ではインターナショナル・サブマリン・バンドのこの最初にして最後の唯一のこのアルバム「おうちで安心」こそが世界で最初の純正なるカントリー・ロックのアルバムとして高く評価され、重要な作品とする向きも少なくない。

*10:その後、1991年になって発表されたバーズのCD4枚組のボックス・セット「The Byrds」にはこのバーズ時代に録音されたまま未発表になっていたグラムの歌声がさらにいくつか収録されているようだ。

*11:まあ、実際にそのとおりなのかどうかは、キース先生の語りは、すでにしてアメリカの黒人ブルーマンの域にまで達しているので(?)その真偽は確かめようもないので(わたくしたちはただ遊園地のアトラクションのように)それを聞いて楽しむしかないのだが・・・・。