The Other Side Of This Life

Words & Music by Fred Neil.
(1966年発表)



(原題直訳 「人生のべつの側」)



From Peter, Paul & Mary album, "Album".
名作アルバム度 ☆☆☆

「アルバム」 (ピーター・ポール&マリー)




Also you can listen to Fred Neil album, "Bleecker & Macdougal",
名作アルバム度 ☆☆☆

(フレッド・ニール)

And Jefferson Airplane live album, "Bless Its Pointed Little Head".
名作アルバム度 ☆☆

フィルモアのジェファソン・エアプレイン」 (ジェファーソン・エアプレーン)



歌詞は、次のURLから
http://display.lyrics.astraweb.com:2000/display.cgi?peter_paul_mary%2E%2Ealbum%2E%2Ethe_other_side_of_this_life



名曲度 ☆☆





邦題 「人生の裏側」 (ピーター・ポール&マリー)








Would you like to know a secret,
奥義を知りたくないかい
Just between you and me.
きみやおれの中にあるヤツだ
I don't know where I'm goin' next,
おれは、この次、
自分がどこへ行くことになるのか
わかっちゃいねえ
Don't know where I'm gonna be.
どこにいることになるのかわかってないんだ




But that's another side to this life,
I've been leadin',
だけど、それは
おれが送ってきたこの生活のひとつの側面なのさ
But that's another side to this life.
つまり、それはこの人生の一面でしかないんだ




I think I'll go to Nashville, down to Tennessee,
おれはナッシュヴィルに行こうかと思ってる
はるばるテネシーまでな
The ten cent life I've been leading here,
ここでやってる一日10セントの暮らしじゃ
Is gonna be the death of me.
おれは死んじまうよ




But that's another side to this life,
I've been leadin',
だけど、それも
おれがやってるこの暮らしの一面だからな
But that's another side to this life.
そう、それもこの人生の一面なのさ




I don't know what I'm doing half the time,
おれは
半分ぐらいは自分が何をやってるのかわかってない
I don't know where I'll go,
自分がどこに行こうとしているのかもわからない
I think I'll get me a sailin' boat
ヨットでも買おうかと思ってるんだ
And sail the Gulf of Mexico.
それでメキシコ湾に出てみようか




But that's another side to this life,
I've been leadin',
しかし、これも
おれが送ってきたこの生活のひとつの面だからな
But that's another side to this life.
そう、これもこの人生の一面なのさ




My whole world's in an uproar,
おれの世界は丸ごと上や下にの大騒ぎ
My whole world's upside down,
おれの世界が
そっくり、ひっくり返るほどの大混乱
Don't know what I'm doin' here,
ここで自分が何をしているのかわかっちゃいない
But I'm always hangin' round.
でも、おれはいつもいることはいるんだ




And that's another side to this life,
I've been leadin',
そして
これもまたおれが送ってきたこの生活の一面なんだ
And that's another side to this life.
そして、これもまたおれの人生の一面なんだ




Would you like to know a secret,
奥義を知りたくないかい
Just between you and me.
まさしく
きみやおれの間にあるものだ
Don't know where I'm goin' next,
この次、自分がどこに行くのかなんてわからないし
Don't know where I'm gonna be.
どこにいることになるのかもわからない




And that's the other side to this life,
I've been leadin',
そして、それこそが
おれが送ってきたこの暮らしの知られざる面なんだ
And that's the other side of this life.
そして、それはこの人生の裏側なんだ





Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞






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人生、いいときもあれば、わるいときもある。
大きなサイクルでも小さなサイクルでも、さらにはぼくらの意識がまるで及びもつかない、とてつもなく大きなサイクルでも、限りなく小さなサイクルでも、いいときもあればわるいときもある。いや、実際のところ、「いい」も「わるい」もなく、ただいろんなときがある、いろんな瞬間がある。
そのいろんな瞬間がひとつの相をなして、(あるときは、それが)「よく」思えたり(映ったり)、「わるく」見えたり(思えたり)するわけだが、(それだって)観点を変えて見れば、はたして本当にそれが「いい」のか「わるい」のかなどわかりはしない。
何をもって「いい」とし、何をもって「わるい」とするのか、その「何」がなんであれ*1、少なくともそれは己(おのれ)の側にあるものだろう。わるいときには「いい」ものがよくわかる。いいときには(「もっといいもの」はわかっても)なかなか「いい」ものはわからない。しかし、「いい」ものがわかるのは、実は「いい」ときだけなのだ。「いい」ものと「いい」ものが共鳴しあうそのとき、その瞬間にそれが(「いい!」と)「わかる」のだ・・・。
人は「いい」ときにこそ、本当に「いい」ものがわかるのだ。
「わかる」と「見える」は同じではない。

したがって、いまのくだりは、こう言いなおすことにしよう・・・・いいときにはわるいものはすぐ見える、わるときにはいいものがすぐ見える。
もちろん、「見える」とは必ずしも目に見えるわけではなく、求める心にひとつの「像」として見えてくるということだ。
なんだか宗教家にでもなったような物言いで恐縮だが、(えーと何を言おうとしてたのかというと)、さっき「少なくともそれは己の側にあるものだろう」と言った(その)「それ」がこの「求める心」だということ。「欲望」とか「欲求」と言ってしまってもいいのだろうが、いまここでは(どことなく)それらの言葉は違うように思える。

この「求める心」というのを(ぼくは個人的に体育会系の端くれとして)戦いの中で学んだ。いや、学んだというよりも「知った」というのが正確だろう。凄い選手、強い選手たちを見て、(そういう「求める心」の)「力」の存在や働きを知った。
スポーツにおける「強さ」とは、その「力」(の度合い)を指すものだとぼくは考えている(あるいは、感が得ている!)。勝利や栄光を求める気持ちというか、斃れてしまうことを拒絶する心というか、それはつねに「抜きん出る」ことをその習性としたものであるように思える。つまり、いまある自分から脱却する。脱却しようとする気持ちの(その)張り具合だ。したがって、それは他から(もしくは他に対して)「卓越」しようとするものではなく、(あくまでも)それは結果としての「像」でしかない。人々の目にそう映るものでしかない。当人にとっては(それは)自分との闘いであり、その結果、そう見える(そう映る)ということでしかない。新たな危機が訪れたと感じられれば、再度、脱却すべき先が心の中におぼろげとそのイメージをかたちづくるようになるのだろう。


とそのへんの話をしていると、今夜のこの歌からあまりに遠くはなれてしまうことになりそうなので歌に戻ろう。


この歌の主人公は、たぶんストリート・シンガーか何かをしているのだろう・・・・・、



I think I'll go to Nashville, down to Tennessee,
The ten cent life I've been leading here,
Is gonna be the death of me.

おれはナッシュヴィルに行こうかと思ってる
はるばるテネシーまでな
ここでやってる一日10セントの暮らし*2じゃ
おれは死んじまうよ



街角に立ち、ギターを弾きながら歌い、通りすがりの人の気まぐれでコインを落としてもらう・・・そういう生活・・・・。
ナッシュヴィル」というのは、言わずと知れたカントリー・ミュージックのメッカである。
この歌の作者のフレッド・ニールは、カントリー色の強いシンガー=ソングライターで(世界的には)ニルソンの歌で大ヒットしたジョン・シュレジンジャー監督の映画「真夜中のカウボーイ」の主題歌「うわさの男」Everybody's Talkin' の作者として一躍、知られるようになったが、それ以前にもバディ・ホリーのヒット曲「モダーン・ドンファン」なんかも書いている。カントリー色はけっこう強いけれども、けっしてカントリー・シンガーでもカントリーのソングライターでもない。それはこの歌が収められたアルバム・タイトルの「Bleecker & Macdougal」(「ブリーカーとマクデュガル」)からもわかるだろう。ニューヨークとかビート・ジェネレーションなんかが好きな人ならすぐにわかると思うが、これは「ブリーカー・ストリート」と「マクデュガル・ストリート」のことで、どちらもグリニッチヴィレッジの中でももっともクールでヒップなエリアとされていた街角だ。そんなところにカントリー&ウェスタンのシンガーがいるはずもなく、いたらおかしい、滑稽だ。というのは(まんま)映画「真夜中のカウボーイ」にも通じるものがあるわけで(そのへんの事情を詳しく知るわけではないが)なんとなくフレッド・ニールの歌が映画の主題歌に使われた(もしくは主題歌作りを依頼された)のがわかる気がする。
ニール自身、グリニッチ・ヴィレッジのフォーク・シーンで12弦ギターの名手としてその歌声を響かせ、初期の彼のアルバムには(まだ無名時代の)ジョン・セバスチャンやフェリックス・パパラルディも参加している。




・・・というわけで(ナッシュヴィルに行って、晴れてレコーディング・アーティストになって「成功」したのだろう・・・)

歌の主人公はいきなりこんなことを言い出すのだ・・・・・




I think I'll get me a sailin' boat
And sail the Gulf of Mexico.

ヨットでも買おうかと思ってるんだ
それでメキシコ湾に出てみようか




1日10セントの乞食同然の辻音楽師(!)暮らしとは大違いだ。
しかし、彼は(そんなことを言い出すその直前に)こうも歌っている・・・・・



I don't know what I'm doing half the time,
I don't know where I'll go,

おれは
半分ぐらいは自分が何をやってるのかわかってない
自分がどこに行こうとしているのかもわからない



普通、こういう状態を「見失ってる」と言いますなァ。
どこぞの町での一日10セントの暮らしから(気まぐれにせよ)思い立ってナッシュヴィルに向かい、そこから成功を収めたがいいが、またしても(といっても、べつに振り出しに戻ったわけではないが)どん底暮らしの時代と同じ「わからない」だらけのグレーな時間・・・・、しかし、それは(たぶん)内面の話なのだろう。外見的には(おそらくスター歌手らしい)超多忙な日々であるのだろう、



My whole world's in an uproar,
My whole world's upside down,
Don't know what I'm doin' here,
But I'm always hangin' round.

おれの世界は丸ごと上や下にの大騒ぎ
おれの世界はそっくりひっくり返るほどの大混乱
ここで自分が何をしているのかわかっちゃいない
だけど、おれはいつもいることはいるんだ




大事なのは(このスタンザの)最後のライン、「だけど、おれはいつもいることはいるんだ」、
あるいは「でも、いつも何かぶらぶらはしてるおれがいるんだ」でもいいだろう、
この歌の主人公にとって(おそらく唯一の現実が)そういう状態(というよりも「常態」というべき)現実なのだろう。
そしてそれ以外の浮き沈みみたいなものは、この歌のリフレインで(文字どおり)繰り返されるとおり、



But that's another side to this life, I've been leadin',
だけど、それもおれがやってるこの生活のひとつの面だからな




言い換えるなら、人生は多面体だということだ。
(もっと言うなら)人生(という「まぼろし」)は多面体(というかたちをしているの)だろう。
(おそらく)人間もまた然り。*3



「いる」こと、それが重要なのだ。たとえ、(この歌の主人公のように)ぶらぶらしているだけだとしても。
そうしていてこそ、初めて世界がわかるのだ、世界と共鳴することが起こるのだ。たとえ、(薬物によるにせよ)(あるいは瞑想によるにせよ)(はたまた超常現象のような特異な体験によるにせよ)「世界」が自分の感覚のまえに開かれてあるだけのものでなく、それらの諸々の感覚(の綜合)を超えたところにおいてこそ厳然たる実在であることを知る者はそれほど多くはないだろう。だが、その数はけっして少なくもないはずだ。


いずれにせよ、(あくまでも)「いる」ことが重要だ。

「いま/ここ」にいること、 Be Here Now!

*1:それですら一定不変の「何か」として固定的な相のもとに現れるものではありえないだろう。すべては(とわたし個人はいまだ言い切る自信も確信も経験もないが)「現れ」なのだろう。それを「現象」といってもいいし、「仮象」といってもいいし、また大胆に「幻」といってもいいだろう。いずれにせよ耳目や諸感覚にひとつの何らかの「像」を暫時的に結んでみせるだけなのだと思う。

*2:10 cent には、10ドル分のマリファナの包みを指す言い方もあるので、そういう暮らしなのかもしれない。

*3:映画監督の今村昌平は、自ら設立したその日本映画学校で(やがて)若き優れたドキュメンタリストとなるだろう永野絵理世(監督作品に「確定死刑囚 大道寺将司」、プロデュース作品に「ヘンニムの輝き」)ら学生たちに「人間は立体である」、「人間を立体として描かなくてはいけない」と教えたという。わたしに言わせれば、「立体」とはすなわち「多面体」のことである。(たとえ「球体」といえども、それは(極限大の)多面体、(もしくは極限小としての)1面体ということができるだろう。