Born In A Prison

Words & Music by Yoko Ono.
(1972年発表)



(原題直訳 「監獄に生まれて」)



From John Lennon Plastic Ono Band album,


"Sometime In New York City"
名作アルバム度 ☆☆

「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」 (ジョン・レノン




歌詞は、次のURLから
http://www.geocities.com/fernando_mex3/sometime.html


邦題 「ボーン・イン・ア・プリゾン」 (ヨーコ・オノ、ジョン・レノン







We're born in a prison
わたしたちは監獄に生まれ
Raised in a prison
監獄に育ち
Sent to a prison called school
学校と呼ばれる監獄に送られた
We cry in a prison
わたしたちは監獄で泣き
We love in a prison
監獄で愛し
We dream in a prison like fools
白痴のように監獄で夢見ている




Wood becomes a flute when it's loved
木も愛されれば笛になる
Reach for yourself and your battered mates
自分自身と自分たちの打ちのめされた仲間たちに
触れてごらん
Mirror becomes a razor when it's broken
鏡は割れれば剃刀となる
Look in the mirror and see your shattered fate
鏡を見て、打ち砕かれた自分の運命を見るといい




We live with no reason
わたしたちは
何の理由もなしに生きている
Kicked around for no reason
訳もなく、いたぶりまわされ
Thrown out without reason like tools
訳もなく道具のように捨てられる



We work in a prison
わたしたちは監獄で働き
And hate in a prison
監獄で憎み
And die in a prison as a rule
ひとつの規則どおりに
この監獄で死ぬのだ




We live with no reason
わたしたちは
何の理由もなしに生きている
Kicked around for no reason
訳もなく、いたぶりまわされ
Thrown out without reason like tools
訳もなく道具のように投げ捨てられる




We live in a prison
わたしたちは監獄で暮らしている
Among judges and wardens
裁判官たちや看守たちの間で
And wait for no reason for you
そして何の理由もなくあなたたちを待っている
We laugh in a prison
わたしたちは監獄で笑い
Go through all four seasons
四季のすべてをくぐり抜けて
And die with no vision of truth
そして
何の真実の展望もなしに死んでいくのだ





Wood becomes a flute when it's loved
木も愛されれば笛になる
Reach for yourself and your battered mates
自分自身と自分たちの打ちのめされた仲間たちに
触れてごらん
Mirror becomes a razor when it's broken
鏡は割れれば剃刀となる
Look in the mirror and see your shattered fate
鏡を見て、打ち砕かれた自分の運命を見るといい






Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞







∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮








刑務所と学校が似ていると言われて、そのとおりだと断言できる人はそう多くはいないだろう。
学校に行ったことがない人はいなくても、刑務所に行ったことがない人はたくさんいる。わたしもまた幸いにしてそんなひとりだが、しかし、刑務所と学校が多くの点で似かよっていることは(いや、ほとんど同じで部分を併せ持つことは)(いくつかの知的なステップを踏まえてみれば)それは認めざるをえない*1


刑務所が単に刑罰を与えるだけを目的とした施設ではないことは、(たとえ、それが多分に「建前」と化してしまっているにせよ)よく知られている。そう、それは「矯正」のための国家の施設であるのだ。日本でもそれは法務省の矯正局の管轄下にあることは先日も触れたばかりだ。つまり、こと役所の管轄に限っていうなら、それはむしろ(刑罰よりも)矯正を主たる目的としているのだ。そして、言うまでもなく「矯正」とは、「なおす(直す)」こと、「ただす(正す)」ことだ。


法に触れ、法を犯した者を(逮捕し、訴追し、裁判によって裁き、その決定にしたがって)罰し、矯正する。



法に触れ、法を犯すのは人の勝手である。(だから意識としてはときに「法を冒す」と記すべきかもしれない)
(ここでいう「人」とは、もちろん(この「わたし」やそこの「あなた」を含む)(具体的に名前と顔と過去と現在をもった)「わたし」たちであり、とりあえず(ここでは)性別も年齢も国籍も問われないものとする)


そして法の遵守は、(わたしたち相互によるものをその主たるものとして)ある程度の監視はあるにせよ、けっして強制されているわけではなく、それは任意であるというのが(2005年のきょうに至るまで東京に暮らしてきた人間が持つ)感想である*2


そして、言うまでもなく法は可変的であり、立法も廃法も改正も改悪もありうるし、それは原理上、わたしたちが(自ら選出する代議員によって)行うことになっており、事実(形式上は)(わたしたちが)それを行っている。

かりに「わたし」たちのある者が法に触れ、法を犯した場合、そうした人間から(被害を受けるなり)(また、その事実を目撃するなどして知ることになり)通報や告発をするのも、同じ「わたし」たちである。

そして、ここから先は「お役所」の仕事となる*3

(わたしたちからの)通報や告発を受け、事実関係を捜査し(操作しちゃダメよ!)、必要とあれば裁判所の許可を得て*4個人の権利の領域にまで踏み込んだ捜査を実施し、法と照合し、十分な証拠とともに裁判所の許可を得て逮捕・拘留の上、あらためて事実関係や動機を調査し(中略)、これを受けて検察当局が(その出来事を)(ひとつのノンフィクションとしていっそうの磨きをかけた上、法の目盛りをつけて)「立=件」し、法に照合した判断により、裁判所に罪の認定と罰の決定を求めて提案する*5


裁判所では、法を犯したその当人の主張と(かりに検察によるその出来事のオフィシャル・ヴァージョンに異議があるのなら)それを裏づける証拠を示して、検察ともども両者が証拠(そして証人)を持ち寄り、相互に主張や反論や批判を応酬して吟味し、そのノンフィクション(オフィシャル・ヴァージョン)の真偽を争う*6。裁判所は(あくまでも)その両者のやりとりを審査するかたちで判断し*7、法に照らして罪の有無と下すべき罰を決定する(とともに関係機関にその決定の実施を命令する)。


(そして「控訴」「上告」といった裁判のシステムにしたがい、判決の確定をもって・・・)

「わたしたち」は人を刑務所に送り、あるいは人々によって監獄に送られるのだが*8、ここにもうひとつきわめて現実的な誤解がある・・・・。

それは刑務所に収監された人間が(その期間)社会から追放されたかたちになっているというきわめて実際的な「見かけ」からくる誤解だ。

追放とは、あくまでも有期、無期の(拘禁を伴う)刑罰にまつわる(かたちとして付随的な)「見かけ」であるにすぎず、彼らは(刑期を満了すれば、もしくはそれ以前の仮釈放というかたちで)いずれは(このわたしたちの)社会に復帰して来なければならないのだ。
その意味では「死刑」と(そして日本には存在しない)「終身刑」)というのは(見かけ上の)永久追放処分と言えるものだが、真の意味での「追放」処分は、外国人犯罪者に対してとられるその母国への強制送還(あるいは(そういうのがあるのか知らないが)第三国へ強制的な送致処分ぐらいのものだろう。


話は数学的になってくるのだが、ここまでの話には多くのフィールド(=場)が混在しているので、それを明らかにしておこう。ひとつには「社会」、これがこの話のグランド(最大の場>グランド・グランドと言うべきか)になっている。そして、「お役所」というかたちで示した「国家」という機関。そして(「外国人」や「国外」という言葉で消極的なかたちながら示されることとなった)「国」というもの・・・。ほかにも、まだまだこれから「資本」とか「政府」とか「地方」とか、安易に通分することのできない異なる分母において(つねに)話を展開していることを意識せざるをえないのが、もはや「国」という公分母において(例えば、国=社会、国=資本、国=政府、国=国民、国=諸地方諸都市町村のように)すべてを通分して(お気楽かつ安易に)語り、論じることが、現実とは乖離した非現実的な誤った無効な判断を導くことにしかならない論旨を形成することにしかならないのが(いろんなものやことが入り組んでたえずいびつに大きさや強弱を変えながら連動している)(いまのこの世界の)この時代の難しさでありダイナミックな面白さだ。


音楽の記号に「D.C.」(ダ・カーポ)というのがあるが、譜面なら(そろそろここらで)「D.C.」とやって最初に戻るか、あるいは「ダルセーニョ」で「セーニョ」とばかりに次の箇所まで戻るとしよう・・・・


刑務所が単に刑罰を与えるだけを目的とした施設ではないことは、(たとえ、それが多分に「建前」と化してしまっているにせよ)よく知られている。そう、それは「矯正」のための国家の施設であるのだ。日本でもそれは法務省の矯正局の管轄下にあることは先日も触れたばかりだ。つまり、こと役所の管轄に限っていうなら、それはむしろ(刑罰よりも)矯正を主たる目的としているのだ。そして、言うまでもなく「矯正」とは、「なおす(直す)」こと、「ただす(正す)」ことだ。


(・・・・・ということで、この項、帰宅後にまた再開・・・・)
(と言いながら、結論的なことを(端折ったかたちで)次の曲のあとに・・・・となりました)

どうぞよろしく・・・・)

*1:もうひとつ似ているものに「軍隊」というものがあるが、それについては、またいずれかの機会に。

*2:もちろん、刑罰全般によって「強制されている」と感じるムキが大多数であるだろうが、わたしたちのいまの日常生活においては(幸いにも)それほど刑罰がちらつかされているわけではないというのがわたしのごく個人的な感覚である。強制ではなく、ごく自然なかたちでわたしたちは個々人において自発的に法律を遵守しており、その自然さと自発性は(実は)個々人の賢さであるとともに何よりもまず教育の成果であり、法の遵守が教育によって形作られたものだということは、わたしたちのそれぞれが(おそらく内心よく)熟知していることだろう。

*3:言うまでもなく、「お役所」の人間はわたしたちが選出したわけでなく、わたしたちが当番制で交互に分担しているわけでもない。そんな必要もないだろう。しかし、わたしたちは(国の主権者として)(国家の最高権力のかけらを分かち持つことで)唯一「政治」というかたちでのコントロールのラインを保有していることになっている。

*4:事件のこの段階における裁判所の関与というのはひじょうに興味深いものがある

*5:前者は裁判まえの「起訴」であり、後者は裁判の終盤における「論告」と「求刑」だ

*6:多くの裁判が検察による起訴状を被告が全面的に認め、基本的に起訴事実を争うことなく、量刑での情状酌量を求めての証人を召喚するぐらいで、これといた争点もなしに即日結審の論告求刑となり、あとは判決言い渡し日の2回の公判で終了している

*7:裁判官はあくまでもレフェリーにとどまり、法廷の場で試合をするのは当然のことながら原告と被告に限られる。アメリカなどで「敏腕」とされる弁護士がどんどん勝訴を勝ち取るのは、そういう前提があるからであるにほかならない。そして付け加えるならば、レフェリーとは審判であると同時に試合の進行役という務めも果たすものである

*8:言ってみれば、ここまでは江戸幕末期のどこぞの田舎の志ある下級武士程度の認識であるにすぎない。

What Did You Learn In School Today

Words & Music by Pete Seeger.
(発表年は未調査)





〔原題直訳 「きょう、きみは学校で何を習ったんだい?」)




Performed by Pete Seeger and many other American folk singers.



You can enjoy Pete Seeger's beautiful live album,
"We Shall Overcome: Complete Carnegie Hall Concert"

名作アルバム度 ☆☆☆☆☆

ピート・シーガー


Also you can listen to Tom Paxton album,
"I Can't Help But Wonder Where I'm Bound"
名作アルバム度 ☆☆☆

(トム・パクストン)



歌詞は、次のURLから
http://www.ocap.ca/songs/learnsch.html



名曲度 ☆



邦題 「学校で何を習ったの?」 (ピート・シーガー









What did you learn in school today, dear little boy of mine?
ぼくのかわいい坊や、
きょう学校で何を習ったんだい?
I learned that Washington never told a lie
ぼくはねえ
ワシントンは絶対に嘘をつかなかったって習ったよ
I learned that soldiers seldom die
兵隊さんはめったに死なないって習ったよ
I learned that everybody's free
誰もが自由なんだって習ったよ
That's what the teacher said to me
先生がぼくにそう言ったよ
And that's what I learned in school today
だから、それがきょうぼくが学校で習ったことさ
That's what I learned in school
それが学校で習ったこと




What did you learn in school today, dear little boy of mine?
かわいい坊や、
おまえはきょう学校で何を習ったんだい?
I learned that policemen are my friends
ぼくはねえ
おまわりさんはぼくのお友達だって習ったよ
I learned that justice never ends
正義は絶対に死ぬことはないって習ったよ
I learned that murderers die for their crimes
人殺しをした人は
その罪によって死ぬことになるんだって習ったよ
Even if we make a mistake sometimes
ときどき、ぼくらは(犯人を)間違えちゃうこともあるとしてもね
And that's what I learned in school today
それがきょうぼくが学校で習ったことさ
That's what I learned in school
それがぼくが学校で習ったこと




What did you learn in school today, dear little boy of mine?
かわいい坊や、
きょう学校で何を習ったんだい?
I learned that war is not so bad
ぼくはねえ
戦争はそんなに悪いことじゃないって習ったよ
I learned about the great ones we have had
ぼくたちがした偉大な戦争のことを習ったよ
We fought in Germany and in France
ぼくたちはドイツでもフランスでも戦ったんだって習ったよ
And someday I might get my chance
そして、いつの日かぼくにもチャンスがあるかもしれないんだって
And that's what I learned in school today
そういうふうにぼくはきょう学校で習ったよ
That's what I learned in school
それがぼくが学校で習ったこと




What did you learn in school today, dear little boy of mine?
ぼくのかわいい坊や
おまえはきょう学校で何を習ったんだい?
I learned that our government must be strong
ぼくはねえ
ぼくたちの政府は強力じゃなきゃいけないって習ったよ
It's always right and never wrong
つねに正しく、そしてけっして間違うことはないって
Our leaders are the finest men
ぼくたちの指導者たちは最上の人たちなんだって
So we elect them again and again
だから、ぼくらはその人たちを何度も何度も選挙するんだって
And that's what I learned in school today
そういうふうにきょう学校で習ったよ
That's what I learned in school
それがぼくが学校で習ったこと





Translated into Japanese tonight by komasafarina.訳詞




∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮∮








しかし、どこの国も(いざとなると)(いや、多くの国が日頃から)こういうことを教えることになる。

実は、学校で(そして監獄で)教えるべきことは(のちほど前の曲に触れて詳述するつもりだが)それぞれの人間がひとりひとり誰もがその国の「主権」者であり、また誰もがそれぞれ個々人の能力に応じて自分たちの国のその社会を構成する「主体」であるということ、そのことを「教=育」しなければならない。それは(けっして道徳や倫理の問題などではなく)「国」と「社会」にまつわる基本原則の開示、つまり一種のオリエンテーションであって、まず、学校で子供たちに教える(示す)*1ことであり・・・、そして(その主体としての生き方を放棄することになってしまった者には)監獄でそれを改めて教えなおさなければならない。それが「矯正」ということだ。
なぜなら、この「社会」も、この「国」も、それは「わたし」たちのものだからだ。
主体であり、主権者、それがわたしたちである。

主権在民」と「機会均等」、
わたし個人としては、この2つが原則として保証されていれば何とかやっていけると思う。

*1:「show」と「teach」と「explain」など、「教える」ことの四態については、http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050130、からの4日間をご参照くだされ。